【 TYK無線電話実用の決定 】

TYK無線電話の東京での実験の結果からその実用性が新聞等で伝えられるようになった明治45年8月ごろは、産業の発展による海運の重要度が高まった時期でもある。
名古屋・四日市・津などの商工業地帯を擁する愛知・三重の商工会議所にとっては、船舶の入港時間等の情報を把握し、港に入る船舶の荷役を効率的に行うことは重要な課題であったようである。
 当時は、船の姿が見えてから艀を用意するなど、港での荷物の取り扱いに手間取ることがあり、商工会議所では入港前に船舶の情報を港へ伝達したいと考えていた。そこで、地理的に伊勢湾に入る船舶を監視するのに都合の良い神島と鳥羽の間に海底ケーブルを敷設し、船舶通過報の取り扱いをしたいと逓信省へ申請した。

逓信省は費用面などを検討した結果 当時開発されていたTYK無線電話を使用する方が海底ケーブルによる通信より費用が掛からないと判断して無線電話の導入を決定。
ここに、無線電話の世界初の実用が決定されたのである。

さて、当初は船舶通過報の取り扱いを主として計画された神島-鳥羽の無線電話であったが、海底電信線の敷設を要望していた答志島も加えて、3地点に無線電話局を設置することとなった
そして、発明から3年後の大正3年12月、世界で初めて無線を使った音声による通信方式が実用化されたのである。

【参考文献】
にほん無線通信史  (朱鳥社:福島 雄一)
日本の通信 (講談社・講談社の学習図鑑)
無線電信電話のはなし (電友社 大正5年 横山英太郎)

【 無線電話実用の効用 】

TYK無線電話の鳥羽・答志島・神島への導入は、これらの島々および名古屋・四日市・京阪神への海運・鮮魚取引の迅速化に貢献した。
答志島は漁業が盛んで、水揚げを出荷する際の相場情報の取得に無線電話を用いた。
当時の答志島は電信のすべを持たなかった。そのため島民は電報を送るためにわざわざ鳥羽へ船で渡っており、翌日でなければ相場情報を得られなかった。これが、無線電話を用いることで、その日のうちに得られるようになり、おおいに便利だったもようである。
当時の通信数は船舶通過報関係が1日4件程度、一般電報は30件程度であったが、漁業繁忙期には100通程度にもなることがあり、多い時は年間15000通にものぼった。

【 TYK無線電話器のその後 】

明治後期から大正にかけては、他の産業と同じようにエレクトロ二クス技術は急速に発達した。
大正時代に入ってからは真空管の国産化ができるようになり、大正6年(1917)頃には真空管を用いた無線機の実用化に目途が立った。真空管を利用していないTYK無線電話器はこのころに真空管式に変更され、呼び出し用のベルが付き、さらに同時通話方式に改良されるなどしながら利用された。
 そして、有線電信電話が敷設される大正12年7月ごろまで、TYK無線電話による通信が行われた。
出展: 無線電信電話のはなし (電友社 大正5年 横山英太郎)
(C) 2011  実用無線電話発明100周年記念局実行委員会 All Rights Reserved.